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福田栄香/邦楽の表現者という舞台へ。

 箏・三味線(三弦)そして歌が織りなす、日本の伝統音楽『地歌箏曲・三曲』の会派を代々、受け継いできた家に生まれた。
 幼い頃から箏や三味線、尺八の音に囲まれ育ちながらも、どこか「静かな世界」に物足りなさを覚え、高校卒業と同時にミュージカルの世界に足を踏み入れる。

「それまでの環境で、自分なりに演劇を吸収してきたつもりだったんですね。でも、何かが足りなかった。それで、21歳のとき、伊藤先生とのご縁を頂いて研究所に入れていただいたんです」

 これまで出会ったことがないような師との出会い。自分では、それなりに分かっているつもりだった"表現者"というものの在り方が覆されるような研究所生活だったという。
「3時間ぶっ通しで、お説教されるんです(笑)。そのお話が胸に迫るし、響くし、耳に痛いし。しかも、どのお話も具体的で、すごく引き込まれる」

 大物と呼ばれる俳優が、普段から人としてどんな生活をしてきたのか。場の空気を一変させてしまう女優は、どんな生き様をしてきたのか。指導者として役者の世界の暗がりから日の当たる場所まで、ずっと見続けてきた伊藤正次は、演技論よりも人間論を研究生に問いかけ続けた。
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「あるとき、先生が、この間の選挙は行ったか? と聞くんです。みんなシーンとしていたら“人間としての恥を知れ”と叱られて…。白紙なら、まだいい、無投票は成人として失格だと。もう、なにか情けないというか悔しいというか、泣けてきました」

 表現者として、いくら上手くなっても、それが何だ。人として、どう生きて、どう世の中と関わるのか。そこまで考えて深く生きてこそ、本物の表現者ではないのか。そう突きつけられた気がした。

「ほんとに、素っ裸にされた感じですよ。でも、それが嫌な感じではなく、ああ、そういうことだったのか。表現するって、こういうことなんだって、研究所で先生に出会って、初めて気付けたんですよね」




 邦楽という伝統の世界に物足りなさを覚え、飛び込んだ演劇の世界。研究所に通い始めて半年ほど経ったとき、福田栄香は、ふとあることを思い立った。

「昔から舞台に立っている父の姿は好きだったんです。でも、伝統音楽の世界で、いくら頑張っても、狭い世界の中だけでのみ理解されて、それを多くの人々に聴いてもらえない。一流になっても世の中に認められないなんて、つまらない」

子どもの頃に、そう決めつけ、遠ざけてしまって家業の邦楽。しかし、研究所で人としてのあり方を考えるようになった時、ふと、自分の人生を改めて考えるようになった。人に何かを訴えかけるのは、演劇も伝統音楽も同じではないかと気付いた。

「自分の中で、何かリンクしたんですよ。自分が大好きな“表現する”ということを、自分の置かれている伝統音楽の立場でやればいいじゃないかと。目的は同じままで、手段を演劇から邦楽に変えればいい。そうすれば、表現者でずっといられるじゃないかって」
 その瞬間、嫌いだと思い続けてきた家業が、違うものに感じられた。

「こういう生き方をすれば、自分に何が蓄積されて、それが自分から発信され、他者の心が、こう動く。舞台人なら当たり前の精神をすごく教えていただいた。そのおかげで、ある日、すーっと自分の心が動いたんです。この教えを邦楽の舞台で生かそうと」




 もう自分は、ずっと演劇の世界に居続けるんだ。そう思っていた福田栄香が、伝統音楽の世界に戻る決心を、師に伝えた。

「それまで先生には、自分がどういう家業の人間かを話してなかったんです。初めて、道を邦楽にしようと思います、と告白したら、先生はすごく喜んでくださって。道は違っても精神は同じだ、頑張れ、と。ただし、年賀状なんてありきたりの挨拶なんかよこすな、自分が本当に連絡したくなったときにして来なさいと言われたんです」

 研究所を離れて7年後。29歳、史上最年少で文化庁芸術祭賞を受賞したときに、“約束”を果たすように7年ぶりの電話をかけた。

「わたしが家業の邦楽に戻るときに、先生からは、風当たりは強いだろうから“稲穂でいなさい”と仰っていただきました。自分は、この世界で立派になるという目標を胸に持ちながら、耐えなさいと。積み重ねを重んじる伝統の世界ですから、ずっと継続して修業を積んできた周囲の人々の目は厳しくなります。勝手に外に出て、また戻ってきてと。演劇の世界とは、また違った厳しさ、競争があることを先生は分かっていらした。だからこそ、稲穂なんだと」


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