伊藤正次演劇研究所とは
ここに集ってきたのは演劇を志すものばかりではない。
既に活躍している俳優はもちろん、学生、演出家、映画監督、舞踏家、音楽家、彫刻家、写真家、画家、メイクアップアーティスト、格闘家……。ジャンルを越え、国籍を越え、あらゆる分野の“表現者”たちが、さながらモンマルトル、モンパルナスのように出入りしていたのが伊藤正次演劇研究所。
その始まりは、24年間の俳優生活後、東京放送(現TBSテレビ)の依頼を受け、新人女優の登竜門であったポーラテレビ小説新人ヒロインの演技指導を行ったところからだった。
1979年、伊藤正次演劇研究所を四ッ谷に設立。そこから、さまざまな俳優を育成、指導。島田陽子、森下愛子、樋口可南子、賀来千賀子、川野太郎、根本りつ子、裕木奈江、宇梶剛士、菅田俊、春田純一、関根大学、吉川十和子、緑健児、斎藤工、貫地谷しほりなど、数多くの研究所卒業生を送り出した。
教え子が芸能の世界で名を上げていくことを、心から喜んでいた伊藤正次だが、そのことと同時に、俳優を育てる立場から「俳優になるのではなく、人間になりなさい」と、厳しく律することを忘れなかった。口先や技術だけが上手くなっても、内面が豊かで磨かれていないことには、本当に人の感情を動かすことなどできないからだ。
現実と虚構。現実世界と演劇表現や映像の世界の共通点、相違点はどこにあるのか。現実と未来をいかにイメージできるのか。過去や歴史を、どれだけ検証できているのか。表現と表出の違いとは何か。どれひとつたりとも、研究生が疎かにすることを許さなかった。
伊藤正次の、人間の本質と向き合う、そうした姿勢は少年時代に端を発している。15歳で父を亡くし、新聞少年として新聞配達をしていた時に、彫刻家の巨匠、佐藤忠良氏と出会い、氏の作品『裸の若者』のモデルとなった。
そこから、佐藤忠良氏の戦争体験、シベリアでの過酷な抑留生活、生と死がせめぎ合う日々のことを教えられ、人間とは何者なのかを考え、自分と向き合い、世の中と向き合い、自分が本当に表したい作品をつくるということを、氏を通して学んだ。そのことが、伊藤正次を人間のあるべき姿を問いかけ、人間を表現する演劇の道に進ませることになった。
また、伊藤正次自身が幼い頃から、いろいろな文化、藝術の空気を身近に呼吸しながら育ったことも、表現者の世界へ誘われたきっかけのひとつかもしれない。
伊藤正次の祖父、伊藤為吉は日本のレオナルド・ダ・ヴィンチと称された発明家・建築家であり、銀座の服部時計店、新橋の博品館などの設計に携わり、耐震性を追求し関東大震災にも耐えた伊藤式コンクリートの製造など、明治ルネッサンスの一翼を担った人物だった。父、 鐵衛(かなえ)も建築家であり、その兄弟には、世界で知られる舞踊家の伊藤道郎、舞台美術家の伊藤熹朔、演出家・俳優であり俳優座創立メンバーの千田是也(せんだ これや)らがいる。
ともすれば、演劇の世界だけという狭い領域での演劇論、技術論に終始しがちな世界にあって、伊藤正次は、世の中のあらゆることに目を向け、関心を持ち、そのうえで「どう生きるか。どう演じるか」ということを教え続けた。
「境界線を引かない、境界線を持たない」「表も裏であり、裏も表である」「メディアに踊らされるな、自分がメディアになれ」というのが、伊藤正次のアイデンティティのひとつ。
研究生にも常にいろいろな角度から情報に接し、自らの目と耳で確かめ「本当のところどうなのか、自分はどう受け取るのか」を実践させた。
歌舞伎然り、チャップリン然り。弱いものの立場からの叫び、声にならない声を上げる、その角度が表現者にはなくてはならないということを、楔として打ち込んだ。名が売れ、技術が向上しても、演じることの原点を決して離れることがないようにと。
人間学ともいえる講義、稽古、芝居。汗が飛び散る距離感と、手放したら二度と戻ってこないような濃密な時間が、そこにはあった。
研究所の授業、芝居の稽古が終わっても、伊藤正次の周囲には、月明かりに見守られるように常に話の輪が広がっていたという。
日が昇り、日が沈み、一日という時間や年月という区切りがあったとしても、伊藤正次と伊藤正次演劇研究所に流れる時間には、始まりも終わりもないのかもしれない。