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 「僕は、人が亡くなっても、そんなに悲しいと思う人間ではないんです。生きてる人間のほうがよっぽど大変だし悲しいんだから。だけど、伊藤先生が亡くなられたときは、寂しかった。もう話を聞かせてもらえないんだな、と」

 研究生だけでなく、その周囲の人間、そして少しでも関わった人間の多くを引き込んでいった伊藤正次という存在。それは、時代が育んだものだったのか。明日はない覚悟で、まっしぐらに生ききる。その熱が、あまりにも凄かったせいなのか。
「先生は、とくに珍しい体験やエピソードを自慢しようとか、笑わせようと話しているわけではない。本当に、先生自身も面白くて話しているのがわかる。だから引き込まれるんです」

 研究生の若い子たちまで、その熱に包まれていた。ふつうに考えれば、いくら師弟とはいえ、年齢も離れ、時代も異なる内容の話に、そうそう人は引き込まれない。いったい、何がそうさせたのか。
「壁をつくらせない人間的魅力っていうのかな。ちょっと、他に会ったことがないような人でした。ダンディズムがあり、美意識がすごく高いのに、子どものように本気で遊ぶ、笑う、怒る。そして、みんなを引き込む魅力がある。だから、生まれながらにして持っている本物の貴種だと」




 伊藤正次の、ものの考え方、主義主張。そして周囲に集まってくる人たちの考え方は、必ずしも同じではなかった。時代背景を考えても、右も左も、いろんな立場のいろんな考えを持った人間がぶつかり合う世の中だった。

「その中にあっても、伊藤先生は、どれもを受け入れるというか、矛盾がないんですよ。すべてを、呑み込んでしまう。人間が好きだったんでしょうね。善も悪も、静も動も、すべて。そして、どんな人間も排除しなかった。ときには湯気を出すように怒ることはあっても、決して排除はしなかった。僕だったら、もう顔も見たくない、となるような相手であっても、怒ったあとはニコニコしていましたよ」

 どんな考えの人間とも話ができる、引き込ませてしまう魅力。
 若き日の伊藤正次が所属していた俳優座・劇団三期会でブレヒトの芝居をやりつつ、米軍基地のアメリカ人とも友人になり、仲間から「いったい、どういう主義なんだ」と言われても「個人的な友だちの何が問題なんだ」と平然としていたという。

「もう、こんな人は出てこないかもしれない。そして、先生の弟子だから、先生のようになれるかというと、それは望む必要もないことです。でも、きっと、何かを受け継いでいる。そんな気がしますよ」

取材・文 / ふみぐら社

神山 征二郎  Kouyama Seijiro

映画監督。1965年、新藤兼人監督の主宰する近代映画協会に参加、同監督や吉村公三郎、今井正らの助監督を経て、1971年「鯉のいる村」で監督デビュー。1976年『二つのハーモニカ』で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。独立後、1983年『ふるさと』を監督。文化庁優秀映画奨励賞など多数の賞を得る。 1987年『ハチ公物語』では山路ふみ子映画賞を受賞、同作品は年間興収ベストワン。1988年、神山プロダクション設立。1990年『白い手』では日刊スポーツ映画大賞監督賞、毎日映画コンクール優秀賞を受賞。以降、『遠き落日』(1992)、『ひめゆりの塔』(1995)、『郡上一揆』(2000)、『大河の一滴』(2001)、『草の乱』(2004年)、『ラストゲーム 最後の早慶戦』(2008年)、『学校をつくろう』(2011年)等、数々の大作を生み出し続ける。



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