受け継がれる想い
伊藤正次から受け継がれる想い。想いをひも解くインタビュー。
Vol.3
不思議な始まりを超えて。
俳優
貫地谷 しほり
Kanjiya Shihori
いまだによく分からないことがありすぎる。
伊藤正次演劇研究所との出会いを振り返ったとき、思い出すのは、その頃の自分が置かれていた不思議な状況だ。
「中学生のときにスカウトされて、芸能界に入ったものの、オーディションに落ち続けて、もう嫌だって泣いてました」
そのとき、母の知り合いを介して研究所の存在を知った。一般募集もしていない演劇研究所。元研究生には錚々たる顔ぶれが並ぶ。
「父と母と3人で、初めて伺ったのが、ちょうどお盆のときだったんですね。研究所のスタジオで先生が、いきなり“お盆は何のためにあると思う?”と聞かれて」
当時、貫地谷しほり、中学3年。伊藤が「僕はね、お盆にお祭りをしたり踊ったりするのはどうかと思う」と続けて言ったことに面食らいながらも「帰ってきたとき、明るいのはとってもいいことなんじゃないかと思います」と笑顔で答えた。
「そうしたら、じゃあ、次から来なさいと言われて。よく分からないんですよ。なんでOKだったのか(笑)」
研究所の研究生では最年少。一番、歳が近かったのが斎藤工で、それよりも一回り以上も年齢が上の役者や表現者の中に、放り込まれることになった。
「でも、研究所の先輩に、この歳でここに来られることは、すごくラッキーなんだよって言われて、そうなんだと思ったけど、本当は全然分かってなかったですね、そのときは」
芝居の中で生活をするということ
貫地谷しほりが、研究生として研究所に通った2年9ヶ月。中学を卒業し、高校生活を送りながら、夕方から始まる研究所の授業を受け続けた。
「それが、不思議と通うのがイヤじゃなかったんです。週3回で、あんなに自分が何かを続けたことって後にも先にもないですね。ほんと、不思議な空間でした」
自分よりも一回り以上もちがう先輩たちに混じっての授業。それも、人間とは何か。演劇とは何か。という本質に迫りながら、森羅万象さまざまなことを考えさせられる内容だけに、16、17歳の高校生には、相当ハードなものだったかもしれない。
「実は、この前も、部屋を片付けながら、当時のレッスンのノートを読み返していて、本当に大事な言葉をたくさんいただいていたんだなって、改めて思いました。役者は芝居の中で生活しなくちゃいけないんだから、ふだんの生活の中からちゃんとしなさい。そんなことがいっぱい書いてあって」
当時は、無我夢中で先生の言葉を書きとめていて、全部の意味までは、わかってなかったと貫地谷はいう。それでも、これは大事なことなんだということは受け止めていた。
「先生は、お芝居は全然教えてくれなかったですね。こうやったら、こうなるとか。あまりにも、間違っているときには言われるくらいで。だから逆に、いま、お仕事でいろんな現場に行かせていただいて、いろんなものに揉まれて、いろんな状況の中からその役を自分のものにしようとして、身に染みて分かるんですよ。先生が、本当に大事にしなさいって教えていただいていたことが」
当時は、まだ自分が子どもすぎて分からなかったことが、不思議なことに、大人になって芝居の現場に立つようになったいま分かる。演技の技術よりも大事なものを教わっていたことを。
「だから、いま、先生の授業を受けたいです。本当に」
「もう、やめない」という覚悟
なにかは、まだよく分からないけれど大切なことを教わっているという気持ち。そして、もうひとつ、貫地谷しほりは研究所での日々から、大切なものを見つけ出す。
「研究所に入ってからは、お芝居をやりたい、女優になりたいという気持ちは、心の中にずっとあったんです。でも、そのときは、いま現在、女優としてのお仕事もないのに、そのことを口に出すのは恥ずかしくて。実現できない夢を語ることはしちゃいけないことみたいな。オーディションもずっと落ちてばかりだったし」
演技と向き合う以前に、自分の本当の気持ちと向き合うことができていなかった日々。
「でも、研究所に通い始めて、やりたいってちゃんと言えるようになって、それからオーディションにも受かるようになったんです。なんだろう。覚悟ができた。もう、やめないっていう」
スカウトがきっかけで、最初から演じることを目指して、この世界に入ったわけではなかったという貫地谷しほり。オーディションに受からず、自分を全否定されたようにさえ感じ、モヤモヤしていたものが研究所に通うようになり晴れていった。
「ある日、先生に、君は大丈夫だからって言われて。先生には、そんな悩みをなにも言ってなかったのに。それで、嬉しくてびっくりして、ワーって泣いちゃったんですけど、本当に先生に出会えていなかったら、いまのわたしはないですね。そう思います」
頑固さを守ってくれた先生
「女優になりたいって思っていながら、それまでは昔の映画もテレビも、ちゃんと見たことなかったんです。チャップリンは知ってても、バスター・キートンは知らないぐらいな。でも、先生に教わって、本当にいろんな作品から勉強するようになりました。先生は、昔の作品で今も残っているものは、それだけ結果が出ているということだ。だから、一番の近道なんだよって」
昔の作品からも、自分の役者としての土台となるものをたくさん吸収したが、それ以上によかったと思えるのが、もともと自分が持っていた核(コア)の部分を壊さないように、先生が指導してくれたことだと貫地谷はいう。
「頑固なんですよ、わたしはすごく。でも、その頑固さを先生は壊さないようにしてくれた。演技でも、先生は当然、もっとこうしたら良くなるって分かっていても、こうしなさいって強制されたことが一度もなかったんです。わたしが調子に乗って、なにか勝手なことを始めてもダメって一度も言われなかった。だから、今でも自分で自分に正直にやれてるんだと思いますね」
その代わり、ということなのかどうか、研究所の先輩には時に表現者として厳しく叱られたこともあったという。
「あるとき『父帰る』を研究所の公演でさせていただいたとき、なにを思ったのか、わたし舞台からすこし降りてしまったことがあったんですね。そうしたら、ある先輩から、舞台が始まったら舞台から降りるな!って凄い剣幕で怒られて。でも、そういうのも含めて、学校に行ってるより学校みたいな気分でした」
越えていくということ
伊藤正次がこの世を去った、2ヵ月後の2004年9月。貫地谷しほりは、映画『スウィングガールズ』で注目を集め、その後、2007年、NHK朝の連続テレビ小説『ちりとてちん』で、1864人が応募したオーディションからヒロイン初主演の座を射止める。
「スウィングガールズも、本当に、本当に先生に観てもらいたかったですし、ちりとてちんの主役が決まったときも、真っ先に先生のところに報告しなくちゃって、走っていったの覚えてます」
伊藤正次演劇研究所としてのルーツは、放送局こそ違っても、同じ連続テレビ小説の主演新人女優を預かって演技指導するところからだった。だからこそ、関係者には特別な思いがあった。
「やっぱり、憧れなんですよ。朝ドラのヒロインは。それまでも、何度か応募していても、最終オーディションに残ったのは、そのときが初めて」
その最終オーディションを前に、貫地谷しほりの中で、ある変化が起こっていたという。
「それまでは、常に自分の中に言い訳を用意してたんですよ。受からなかったらショックだから、そんなに期待しないでいようみたいな。本当は、すっごく受かりたいのに。それが、ちりとてちんの最終オーディションの時は“絶対受かりたい、絶対このヒロインやりたい”って本当にその一心になれたんです」
そして、いま。貫地谷しほりは、心の中で師との次の約束に向かっていこうとしている。
貫地谷しほり
Kanjiya Shihori
伊藤正次演劇研究所元研究生。2002年映画デビュー。映画『スウィングガールズ』(2004年公開)『夜のピクニック』『パレード』、ドラマ『連続テレビ小説/ちりとてちん』『キミ犯人じゃないよね?』『バーテンダー』『華和家の四姉妹』、人形アニメ映画声優『屋根裏のポムネンカ』、舞台『余命1ヶ月の花嫁』、ラジオナビゲーター、番組ナレーション『プロフェッショナル 仕事の流儀』他多数、CMなど幅広く活躍。2008年、エランドール賞新人賞受賞。
貫地谷しほり オフィシャルサイト
貫地谷しほりさんが出演された下記の番組内で当研究所が取り上げられました。
* TBS系列『A-Studio』 2013年5月24日放送
* NHK『スタジオパークからこんにちは』 2013年5月31日放送