イトウミチオと伊藤正次

〜伊藤正次が父のように慕った世界人〜

その姿はいつも憧れであり拠りどころだった。15歳で父、 鐵衛(かなえ)を亡くした伊藤正次にとって、父の兄であり伯父にあたるイトウミチオ(伊藤道郎)の存在は非常なるものだったという。
 
若くして日本を飛び出し、日本人ダンサーの存在感など世界でまったく皆無だった時代に、東洋と西洋の文化の壁を風のようにすり抜けて舞台の寵児となったミチオ。
自分の中に国境を持たなかった伊藤正次にとって、日本人であることを捨てることなく、そこに縛られることもなく世界を駆け抜けたイトウミチオの存在は単なる伯父という関係を超えて常に語り掛けてくるものがあった。
 
人間とは何か。生きるとは、表現とは。世界の中の自分とは。一向に無くなることのない世界の争い、人々を襲う禍。その中で芸術の存在とは。
唯一無二であるイトウミチオの踊りは、そうした問いの渦の中に飛び込むことで生まれたのだ。
どう演じるかは、どう生きるかである。「役者の前に、人間であれ」と研究生に教え込んだ伊藤正次にとって、生涯、自分自身を生きるための舞台を降りなかったイトウミチオの姿はどんな照明よりも確かに前を照らしていたのだろう。

イトウミチオという生き方

〜世界が恋した、日本人がいちばん知らない舞踊家〜

イトウミチオほど世界で知られ、愛され、一般には日本で知られていないダンサー、舞踊演出家はいないかもしれない。ドイツ、イギリスを経て渡ったアメリカではモダンダンスの先駆者として今も名を残すイトウミチオ。
 
19歳で声楽修業のためにドイツへ渡り、ベルリン時代の山田耕筰から音楽を学ぶ中、モダンダンスの祖であるイザドラ・ダンカンの舞踊公演に感銘を受け山田耕筰からも舞踊家への道を勧められる。
20歳のときにリトミック創始者エミール・ジャック=ダルクローズ が開いたダルクローズ・インスティテュートに東洋人として初めて入学を許され、そこからミチオ独自の「テン・ジェスチャー」を考案。
「人生のすべての意味をこの10の動作によって表現できる」とミチオが語った画期的メソッドから生まれた踊りは、ヨーロッパの社交界で激賞を浴び、ミチオを舞踊の表舞台に引っ張り出す。
ここでミチオはさまざまな芸術家と交流し、20世紀初頭のモダニズム運動の担い手だった詩人エズラ・パウンド、ノーベル文学賞作家ウィリアム・イエィツと知り合い、東洋の「能の世界」に触発された舞踊劇『鷹の井戸』を共同制作する。
当時の英国女王も鑑賞した『鷹の井戸』は高評価を受け、戦局が悪化したこともあって大西洋の向こうニューヨークからの誘いで渡米。
しかしニューヨークで待っていたのはミチオが思い描いていたダンスの世界ではなかった。
象が舞台の上でベースボールの芸をしている隣でダンサーたちが踊る。語弊を恐れずいえば「見世物」「ショー」の域を出ていなかったのだ。
「粗野で物質主義すぎる」とミチオが言うニューヨークからロサンゼルスに拠点を移したミチオは、ここで東と西の精神が出会う調和のとれた空気を感じながらローズボウルなどでの野外劇場公演を精力的に行う。
100人以上のオーケストラを従え、総勢200人以上のダンサーが踊った「光のページェント」はミチオの十八番である「(※)ピチカット」をはじめ、すべてが完璧で観客を光と影が織り成す優雅な時間に酔いしれさせた。
一方でミチオは自らの公演のみならず、ロサンゼルスでもスタジオを開設しプロのダンサーからアマチュアまでを指導し、多くのダンサーとダンス教師を育成している。
内面からほとばしるような光を持った人間を育てる。そしてその光は「精神」「文化」「身体」いずれもバランスの取れたものでなければ生み出せない。決してダンスだけが技術的に上手くても身につけられないのだとミチオは感じ取っていた。

代表作「ピチカット」撮影:宮武東洋

 
代表作「ピチカット」撮影:宮武東洋

完成まで10年かかったタンゴ

 
完成まで10年かかった「タンゴ」撮影:宮武東洋

 これは、一人の人間としてどう世界と向き合うか、どう世界を感じるかを研究生に決して疎かにさせなかった伊藤正次の姿勢とも通じるものかもしれない。
決して順風満帆なときだけでもなく、西洋では「神秘的な他者」としての東洋性を求められ、アメリカでは敵国人として捕虜生活も経験したイトウミチオ。
それでもミチオは自分の中の光を絶やさず、東洋の「能」に内在する「静の動」を自らの踊りを通して体現し、西洋の光に照らされることで見事にピチカットという新しいダンスに昇華させた。この全く新しい踊りを目の当たりにした欧米のメディアは光と影を巧みに操った“シャドー・ダンス”として称賛した。
分断と敵対化が進む21世紀の世界。だからこそイトウミチオの自らも他者も壊さず生かしきるバランス感覚から目をそらさずにいられないのである。


(※)ピチカット
イトウミチオの代表的なソロダンスである「ピチカット」。東洋の「能の舞」をモチーフに舞の特徴である、飛んだり跳ねたりをせず上半身の動きだけで舞う技法をもとにミチオが独自に考案した優美さと深遠さを兼ね備えた光と影のダンス。

イトウミチオの地図

幼少期〜

1893年東京、神田三崎町で発明家であり建築技師であった父為吉と動物学者飯島魁の妹・母、喜美栄の間に生まれる。
兄弟姉妹には陸軍大将古荘幹郎の妻・嘉子、すぐ下の弟、鐵衛(伊藤正次の父)、音楽家の伊藤祐司、舞台美術家の伊藤熹朔、洋画家中川一政の妻となった暢子、演出家・俳優であり俳優座創立メンバーの千田是也(伊藤圀夫)らがいる。
中学生のころからハーモニカや三味線を演奏し、1912年、師事していた三浦環(日本で初めて国際的な名声をつかんだオペラ歌手)のオペラ舞台「釈迦」で初舞台を踏む。その舞台をきっかけに声楽の道を志すことに。

留学時代〜そしてアメリカへ

1912年ドイツに音楽留学。1913年、ダルクローズ・インスティテュートに入学。
1914年、第一次世界大戦の戦火を避け、在ドイツ大使館の義兄古荘幹郎の助けも得てドイツからオランダを経てイギリス・ロンドンに渡る。
戦時下のロンドンでは踊りの衣装を誂えることも難しく、身の周りのものを売りながら生き延びる困窮生活を送る。その最中、著名人が集まるパーティーに招待され、当時のイギリス首相アスキスにミチオのダンスが称賛されたことから社交界に名を知られるようになる。
ミチオは英語が得意ではなくドイツ語で2時間ほどアスキスと話したが、そのときはその人物が首相であるとは知らなかった。
1915年、ロンドンの辻々に畳一畳ほどもあるミチオの舞台出演広告が貼りだされ、何十という新聞にも記事が出るなど一躍、時の人に。

 
1912年ドイツに向かう途中のペナンから弟の鉄衛に宛てた手紙。

 

 
1915年2週間の公演が終わりホッとしたとの報告。

1916年、『鷹の井戸』の成功を受けロンドンから大西洋を横断してアメリカ・ニューヨークへ。

 
1916年ニューヨークからの近況報告。

 
1917年シカゴからの便り。

 
1929年、シアターギルドを結成するなど精力的にダンスリサイタルを行い、アメリカ各地を公演していたミチオはロサンゼルスに拠点を移す。
1930年、日本人ではじめてハリウッドにある世界的な野外音楽堂ハウリッドボウルで公演を行い、2万人もの観客を酔わせて成功裡に終わらせる。
1941年、太平洋戦争開戦により捕虜として収容所に。2年間の収容所生活ののち、家族と離れ離れで日米交換船により強制帰国。

帰国後の活躍

1945年、戦後の日本でGHQ占領下において日本人の立ち入りが禁じられた東京・日比谷「旧東京宝塚劇場」=「アーニー・パイル劇場」の顧問兼舞台総監督を依頼され、編成した「アーニ・パイル・ダンシングチーム」はショーの本場アメリカを上回る観客の熱狂を呼んだ。
戦後、日本ではじめてのファッションモデル養成所、ファッションモデル事務所の立ち上げやミス・ユニバース審査員なども務める。単なるその場だけの美ではなく、自らを成長させ人にも良い影響を与える新しい時代の美の職業を築くことをミチオは考えていた。
1960年、ローマオリンピックを視察。
1964年の東京五輪では開会式・閉会式の総合演出の担当となっていたが、1961年に急逝。